ヴィスワ川を渡ってゲットーのあったポドグージェ地区に行きます。
ポーランド総督に任命されたハンス・フランクは大の反ユダヤ主義者であり、自分のお膝元であるクラクフから出来る限りユダヤ人を追い出したがっていました。1940年4月12日にフランクは「ユダヤ人はこの町から放逐しなければならない」と宣言し、技能などがあり労働力になるユダヤ人以外はクラクフから追放されることになりました。
クラクフに残る許可を得たユダヤ人は、伝統的なユダヤ人居住区のカジミェシュ地区のヴィスワ川対岸にあったポドグージェ地区に作られたユダヤ人隔離地区に押し込まれて隔離され、ここには1941年3月に正式にクラクフ・ゲットーの名が冠されました。
ズゴダ広場は、ゲットーへの移住を命じられたユダヤ人をゲットーからアウシュビッツなどの強制収容所に運ぶための待合場所となり、収容所行きを拒否する人は容赦なく射殺されました。ズゴダ広場は戦後「ゲットーの英雄広場」 と名前を変え、クラクフ・ゲットーで亡くなった方の弔いの場となっています。
ゲットーの英雄広場。

2005年12月、このゲットーの英雄広場に、イスをモチーフにした新たな追悼モニュメントが開幕されました。ユダヤ人学校の生徒が、一人ひとつずつ教室のイスをもって移動しているシーンを映した当時の有名な記録フィルムにちなんでいるそうです。
イスのオブジェが並んでいます。

1941年3月20日にゲットーは封鎖され、以降自由な出入りはできなくなりました。ポドゥグージェ地区にははゲットーになる前まで3,000人が暮らしていましたが、ここに5倍もの15,000人のユダヤ人が押し込まれ、窮屈な暮らしを強いられました。
クラクフ・ゲットーはワルシャワ・ゲットーと並んで閉鎖的なゲットーで周囲は壁で囲まれて外界から完全に隔離されていました。
ゲットーの施設、壁などは、ユダヤ人自身に作業させて、作らせました。壁の形は、高く、かまぼこみたいな半円形の形をしています。
これは、ユダヤ人墓地の形に似せたもので、精神的負担を与える目的があったと言われています。
クラクフ・ポドグジェ地区のルヴォフスカ通りは、このゲットーの壁の一部が再現されています。
少しわかりにくいですが、木の下の壁です。

1941年から1943年までここにゲットーがあったことが示されています。

そのゲットーも1943年3月13、14日に解体され、ユダヤ人たちはアウシュビッツやビルケナウなどの強制収容所に送られることになります。
『シンドラーのリスト』のシーンに、シンドラーが複雑な表情を浮かべて、馬上で小高い丘の上からゲットー解体を見下ろすシーンがあります。
木の生えているところがその丘のロケ地だそうです。

同シーンに、赤い服を着た女の子が歩いているシーンがありますが、その女の子が歩いていた通りがここだったと教えてくれた記憶がありますが、時間が経ってしまったので記憶が定かではありません。
ゲットーの外だそうです。

シンドラーはここでユダヤ人を雇用し、従業員リスト(実際には働いていない人も含まれていた)、いわゆるシンドラーのリストを作って彼らが絶滅収容所に送られないようにしました。
工場は内部のリフォームを終え「クラクフ歴史博物館」の1つとして公開されました。
博物館では「ナチス占領下のクラクフ 1939~1945」という常設展示があり、狭いゲットーでのユダヤ人のつつましやかな暮らしの再現などを見ることができるそうです。
シンドラー関係だけでなく、占領下のクラクフの社会状況全般がわかる展示となっており、学生の団体も多く見学に訪れるので、狭い通路はかなり混雑しているそうです。
時間がなかったので外観だけだったのが残念です。
シンドラーの工場。


シンドラーに命を救われた人たち。


『一つの生命(いのち)を救う者が、世界を救える 』。


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